今朝、フジテレビの“とくダネ!”という番組で、みちのく三大桜の一つとして「北上」、「弘前」と共に、「角館」の桜が紹介された。
その中で、「9月に合併をひかえているので、角館としては最後の桜となりますが、『角館の桜』は天然記念物なので、合併しても『角館の桜』だそうです。」と言っていた。
俺は、朝飯のパンをほおばりながら「何言ってんだ。合併しようがしまいが、角館の桜は、角館の桜だろう。仙北市の桜なんて言うわけないだろう。」と心の中でつぶやいた。
私の頭の中では、“自治体としての町”と、“おらほのまち”は別物だから、自治体が合併しても“まち”はそのまんまだ。今だって、白岩は、独自の歴史と文化を持った“まち”で、角館と白岩は別の“まち”という感覚だ(だから、白岩焼きを角館焼きと呼ぶのにはとても違和感を感じる)。
なので、角館の桜は、これからも角館の桜だし、角館のお祭りは、角館のお祭りなのはあたりまえだと思っていた。
だけれども、この番組での紹介のし方を聞いて、世間では必ずしもそうは見てくれないのかなと、ちょっと心配になった。
もしかすると、来春はみちのく三大桜を紹介するときに「北上」、「弘前」、「仙北市」と紹介されるんだろうか?
今年も東京駅の壁には、「角館」と大きく書かれた桜のポスターがそこかしこに貼られている。このJR東日本の観光ポスターに書かれる名称は来年以降も「角館」のままだと思う。JRの駅名は「角館」のままだし、「仙北市」と書いたところで宣伝効果は期待できないから。
でも、今朝の番組がそうだったが、テレビなどで地図を示して紹介する場合は「仙北市」と紹介される事はあるような気がする。
都市に住む人間は、地方に住む人間に比べると、住んでいる町についての思い入れが驚くほどない。自分自身が他所から引っ越して来たという場合も多いし、町に個性がないとか、人口が多いとかいろんな理由があるんだろうが、とにかくあっさりしている。
だから、角館の人が、合併しても角館は角館のままと思っていても、他所の人からは「角館はなくなって、仙北市になったんだよね」と、サラッとした意識で捉えられているかもしれない。
今回、フジテレビの担当者は、角館町の観光課に電話して話を聞いたと思うんだけど、たぶん向こうから「合併するから、今年が角館としての最後の桜ですよね」とか聞いたんだろう。
そのとき役場の職員は、合併しても『角館の桜』と呼ぶ理由を『角館の桜』という名称で天然記念物に登録されているから、と説明したのだろうか。まぁ、電話の話の流れの中で、そういう話をちょっとしただけかもしれないが、もう少し角館の“まち”を強く意識してほしかったなぁと思う。
「自治体は合併しますけれど、歴史ある角館の町は以前と変わりありませんので、来年以降も『角館の桜』は『角館の桜』でございます。」と答えて欲しかったな。
これは、おそらく町に住んでいる人の自然な感覚ではないだろうか?
でも、メディアにどう答えるかは、たぶん職員の一存では決められないんだろう。「合併したのに、角館の桜と言うのは他町村の手前ちょっと問題があるかもしれない」という意識が働くかもしれない。
ここら辺の扱いは、議会と、行政できちんと整理した方がいいのではないだろうか。
来年からテレビ局などのメディアが、桜や、お祭りなどの情報を得るため連絡する連絡先は、角館町の観光課ではなく、仙北市の観光課になる。仙北市の観光課の職員は「仙北市の桜の見頃はいつ頃ですか?」と聞かれたらどう答えるのだろうか?
(以前、合併協議会で、観光協会も合併すべきじゃないかという話が出ていたが、このようなことを考えると観光協会を一つにするのはよくないと思う。)
町の人が思うよりも、外の人は角館町はなくなって仙北市になったという意識で接してくる事が多いのかもしれない。
ここまで育てた「角館」という名前の価値を守り、より大きく育てるために、いままでよりも意識的に扱う必要があるように思う。これは、「田沢湖」にも同じことが言えるだろう。(「仙北市の温泉」とか、「仙北市のスキー場」なんて言われたくないよね)
合併したからと言って、各地域を偏りなく平等に扱わなければならないと思うあまり、それぞれのまちが育ててきた財産を失う事にならないよう願いたい。