メイン | 昭和60年の駅前さんの人形と思われます »

2005年06月10日

私は誰?

 昔撮ったお祭りの写真(実は、わたしが撮ったわけじゃないんだけど)を人形場面データベースのβ版で公開していますが、中には“外題のわからない写真”や、“何年の人形かわからない写真”があります。

 そこで、皆さんにお願いです。
 このブログにそうした写真を掲載しますので、写真を見てわかった方がいらっしゃいましたら教えてもらえないでしょうか?
 
 お返事は、コメント欄に書いて頂ければと思います。
 なんとか、一つよろしぐ頼むんし。

投稿者 taguchi : 2005年06月10日 00:02

コメント

これは吉野山の合戦ですね。佐藤忠信と頼朝の命によって義経主従の追っ手の命を受けた吉野山の坊さんです。

投稿者 クロスロード : 2005年06月10日 23:33

訂正ばかりですいません。何も調べずに小さい頃の記憶を頼りに思い出しているので間違いが多々あると思いますが頑張って投稿します。それにしても本当に懐かしい写真ばかりで人形オタクにはたまらないですよ。今回の56年の岩瀬の「保元軍記」はうちにもこの場面の写真がなくて当時から謎の場面だったんです。
この人形を見るのに25年間かかりましたよ!!(笑)


今は写真屋さんで全町の人形写真が販売しているので見逃す事はないのですが昔はそんなのないですからね。
当時はお祭り終わると母親が写してくれた写真ばっかり眺めていました。

投稿者 クロスロード : 2005年06月12日 01:35

クロスロードさん、いつもコメントありがとうございます。

> それにしても本当に懐かしい写真ばかりで人形オタクにはたまらないですよ。

 そう言って頂けると嬉しいです。

 お話を伺って、みなさんいろんな思い出があるんだろうなぁと思いました。

 昔の写真なので、知っている人が写っていると「若ぇなぁ!」と思ったり、若衆の髪型が当時の流行なのを見て「あぁ、あの頃か」と思ったり、私はそういう変な楽しみ方をしています(笑)

投稿者 20年ぶり : 2005年06月12日 13:39

かででけれっす(笑

俺のような、あの写真の時代にリアルで祭りやってなかった(この世にいなかった)人間にとっては、懐かしさというよりは、衝撃の連続というか何というか。

あの祭り前の「どんな人形だべな〜」っていうウキウキと、6日に街中廻ってこの目で山に乗ってる人形を見たときのなんとも言われない気分を、数年分一気に味わってるような感覚になるのです。


桜美町の「茨木」と「宇治川先陣」が順に掲載された際、どっちにも坊主頭のF・T氏が映りこんでる辺りは、笑ってしまいました。

パンチパーマの方々は、ホント、時代を感じるとともに、人形並みの迫力を感じました。

あと、太田三本扇とか西長野といった今となってはレアな地域の師匠方が演奏する囃子は、果たしてどんな感じだったのか。俺の立場上、そういうのも見ててワクワクしたりします。

投稿者 佐藤 : 2005年06月13日 23:27

そうか、佐藤さんがまだ生まれる前ですか。

 でも、生まれる前の写真が沢山あるからいいですよ。
 私が生まれる前の写真なんて、まぁないことはないんでしょうけど少ないと思います。私は、さすがにその頃の写真は持っていませんけど、見てみたいですね。

 だれか、見せて。

投稿者 20年ぶり : 2005年06月14日 01:09

重成出陣の場が決まるまで・・・
当時人形の場面の決定は、私の父が担当しておりました。しかし、いい場面が思い浮かばず、つたやさんに相談に行きました。(当時私は小学生でしたが、もちろん私も、おまつり馬鹿は遺伝しておりますので、父についていきました。)
父 【困った〜何かいい場面思いつがねくて、どごさも上がったごどね、場面何かね〜べがっ】
つたや 【(甲高い声で)ん〜っ、ちょっとまでよ〜】
と、つたやさんは自宅へ行き、なにやら絵本を数冊持って来てくれました。
つたや【これ、見でけるが?】
父【ん・・・】その絵本には、木村 重成 と書かれ、きれいな挿絵の入ったものでした。それからしばらく、つたやさんとの話が続き、重成出陣の場と決めたのでした。
いざお祭りが始まり、8日の観光用激突、
駅前は、中央通りと激突!
激突中、あたりで、なぜか子供たちの笑い声?
な〜ぜ〜
智徳院のハチマキが激突するたびに、中に浮いたり、ずれたり、人形を押さえる先導の必死な姿を見ていた子供たちが、笑っていたのでした。

チョット思い出したもので、書いてみました。

投稿者 三代目魚弘 : 2005年06月14日 05:54

 貴重なお話をありがとうございます。

 木村重成の人形が乗った背景にはそういった事があったんですね。
 それにしても蔦谷さんは、いろいろと勉強されていた方だったんですね。おかげで、二十年後ではありますが、私も木村重成という人物を知ることができました。


 ってことは、やはりこの写真が昭和60年の「大阪冬の陣 重成出陣の場」で、61年が「大阪夏の陣」ですか?

投稿者 20年ぶり : 2005年06月14日 20:57

三代目魚弘さん、いつもどうもです。

懐かしい思い出話を聞かせてくれて有難う。やはり各町内、人形師との思い出、その人形師が作成した人形への思い出っていっぺあるよな。

駅前の人形についての思い出話を俺も一つ。

このブログにも掲載されている昭和58年の駅前の人形場面「義経記奥州下りの場」が俺にとって一番印象に残る場面でこの年が俺の人形外題を自分で決めた最初の年で当時、東部はまだなかったので菅沢についていた時になるな。この年に3日目に栄丁で菅沢と駅前が八百長したのを覚えてますか?この時の遮那王の綺麗な顔がやたらと目に焼きついていて「いい人形だな」と思っていました。激突するたびにガクンと刀を持っている手や体全体が動き、本当に相対する人形の長刀を切っているような感じで・・・今でも思い出せます。

投稿者 クロスロード : 2005年06月14日 22:50

というわけで佐藤君。君のサイトの人形場面ランキングに投票したのだが・・・・コメント間違えたので訂正よろしく。20年ぶりさん、お騒がせいたしました。

投稿者 クロスロード : 2005年06月14日 23:00

・義経記「奥州下りの場」 > 昭和58年駅前 タッキーばりの美顔の牛若丸

コメントは、これでよかったですかね?

昨日、西勝楽町の人形場面調べるために91年のビデオを見てたら、桜美町の山の後ろで上覧の際、鼓を打つ蔦谷さんが映ってました。そのビデオを見て、今年の2月の芸能発表会のために、鼓の打ち方を勉強したのですが、やっぱりあのしなやかさは出せませんでした。

東部は「不動」、駅前は「大三島の合戦」の年です。鶴姫は、たぶん俺が祭りをやるようになってから初めて見た女人形だったと思います。そしてなんといっても不動明王のあのインパクト。小学校1年でしたので、歌舞伎の事など知るよしも無く、「山にこんな人形が乗ることもあるのか〜」ってびっくりしたことを覚えてます。あの頃はあの人形を鬼だと思ってました。ありがたい仏様なのに。お賽銭投げられませんでしたか?(笑

その年は「角館おやまばやし保存会」が東部に乗ってて、3日目の自町内廻りで踊りやってるときの東部の山の中がちらっと映ったとき、大澤先生が元気に太鼓やってて、その隣に鼓を打つ山本パパさん。そしてその隣には、若かりしころの昭二郎さんが映ってたんです。マジで若かったです。見てて「すげ〜!!」って言っちゃいました。

その年も、駅前と菅沢は平和会館前で3日目に八百長をやってましたね。八百長のときに、山の後ろに色々な町内の半纏が入り乱れていた、そんな時代でしたね。

投稿者 佐藤 : 2005年06月14日 23:29

コメントをお願いします。